いっとき避難場所

日々是好日

思うことなど

人は何度も死ぬようなものではないようだ

もしかしたら生まれ変わることもあるかもしれないけれど、たぶん一回死んだらもう、戻っては来ないだろうし、生きているうちに知己だったひとに黄泉で会うこともたぶんないだろう。

だって、天国も地獄もこれまでに死んだ全ての人がいるとするならどれだけ広いか、どれだけ混んでいることだろうかと思う。

 

この世との別れというのはそういうことだけど、誰かに別れを告げるというのも同じことのように思える

 

別れを告げると自分の一部が死ぬ。

思い出は夢のようで、睡眠の友であっても明日の約束や未来の希望にはなり得ない。

そのうち、その場所に知らぬ間に新しく出会う人が入ってくる。

 

無くした腕のあった場所がどんなに傷んだとしても腕は戻らない。

世界にわたし1人しかいなくても

朝起きたら顔を洗い歯を磨き

部屋を片付け朝ごはんを作る

食べて洗濯して、農作業や狩りでもして

楽しく泳ぎ 木に登り 本を読み

夕ご飯を作って、しっかり食べて、

日が暮れたら床につく

規則正しい日々の繰り返し

 

と、いうのは所詮理想だな。

でも、日々嘆き涙しつつそのように暮らせればいいとは思うけど。

 

そうであるなら、世界に誰もいないよりは誰かがいるのもいいではないか。

そうであるなら、毎日仕事に行くのもいいではないか。

なすべきことをなせ

と、いうのはなすべきことが隠されていてある日突然出てくるんじゃなくて

日々目の前にあるなすべきことをやれ、ということなんだろうなと思う

 

現実放棄なのはそういうことをやっていなかったから

それは病院の責任とか医者がどうこうではなくて

わたしが自分のなすべきことから逃避したからいけないのである。人のせいではない。

 

 

選択の責任

全ての事柄について

たとえば、道を歩いていたら暴漢に襲われたり、クラスに行っただけなのにいじめにあったりする

道を歩けば糞を踏むこともあるし、

 

そのような偶発的な被害を、人間はどういうふうに捉えて生きていけばいいのかなあと思う

 

その道を選んだ自分が悪かった?

被害の機会はすべての人に平等である?

 

わたくしといふ現象は…

 

ではないけれど、

苦も楽も等価であって、富も貧しさもすべて等価だと考えるべきかしらん

 

 

我あるが故に、我思う

例の二年間の記憶が朦朧とするときがある。

治療中、記憶がとんだりしたこともある。

 

子供の頃離人症になった前後は

全く人が変わったように行動していた。

 

しかし、わたしはもともとこうだったのだとか、それで何が悪いと思ったとしても、

記憶は消えないのである。

自分の記憶と、何かしら自分自身の認識を変えようと試した後のものは一致しないから

そのためにぼんやりとしたりする

 

さらにいうなら自分は、人がなんと言おうとももうこういう人間なのだと思ったとしても

他人の記憶や自分の環境が過去の自分を反映している。

 

つまり、認識的にどうこういうことにはあまりに限界がある、ような気がする

 

わたしが変われば世界が変わる、も正しいけれど

わたしが変わって行動が変わったから