いっとき避難場所

夏の白熊は冷凍庫の中に

欠乏ドリブンではない生き方

うちの母の友達は医者の妻が多かった(うちは違う)。

そうして、学童期から大学にかけて、なぜか幼馴染がたくさん潰れるのを見た。

なぜでしょう?。

ほぼメンタル。

 

わたしは早々に小学校で受験戦争をドロップアウトし、四谷大塚も数ヶ月でやめ、ついには私立小を中退し引きこもりになった。

みんなより早くに潰れた。

 

今でも覚えてるのは小学校六年生の時、漱石我輩は猫である、を読んでいたときのことだ。

たしかに面白かった、猫だし。

しかし、自分の中に何にも感想が湧いてこないことに気がついたのだ。読書感想文の体裁を整えたものは書くことができる。でも、本に書かれているような感動そのものが、わたしの中にない。

 

ファンタジー小説はすごく好きだった。

入り込めるから。

でも、人間の話が全然だめだった。主人公の気持ちを述べることはできる。国語のテストはまあまあ100点。

でも、わたしの中にそれがない。

 

思春期であって、わたしはすごく悩み始めた。

 

 そもそも、学校で一番とか、そんなことが当たり前でないと、母は目に見えてがっかりしているけれど、一番だったらもっとやりなさいっていうだけじゃん。努力して何か成し遂げると母はがっかりする。一番好きな言葉は、この子は才能があるとかポテンシャルがある、というのだけれど、

わたしの中には動機がない。

母にがっかりされたくないとか、将来必ず何かになるという言葉によって動かされている。

しかしわたしが、確率的に、パスカル(その頃パンセが好きだった)とか、天才に及ぶようなことができるだろうか?。

一番になれるのはいつだってたくさんの中の一つだけだ。一億六千万人人がいて、わたしがその中で一番に?

確率的に無理じゃない?。

もしそんな逸材ならそもそもこんなことで悩むだろうか?。こんなくだらないことで悩んでいる天才の話を読んだことがあるだろうか?。

いや、ない。

わたしの動機はおかしい。

 

…それでわたしは引きこもって、本ばかり読み始めた。自分の可能性がなくなればなくなるほど納得をした。

恐れていたからというのもあるかもしれないけれど、実現可能性が限りなく低い中で、わたしは、一番を追いかけるよりも、それこそ小説の中にあるような、例えば、芸術なら認められるよりも表現する行為そのものに喜びを覚えることを知りたかった。

 

うまく見つけられなくて、20歳になって家を出てIT土方で自立して、大学を出て、人に関わる仕事をはじめて、初めて、夢中になるということを覚えた。

わたしには、人を観察したり、共感性を振り回す仕事が面白かったみたいだ。

 

そうして、自分は一番になれないという子供の頃の判断は、あっていたと思う。

 

と、いうわけで、自分の子供というのは実験だ。

少なくともプレッシャーをかけないことはわたしの努力でできる。

自分の親について思うのは、だいたい、子供に自分の代わりに頑張らせて自分が、何者かであろうともしないというのは、責任放棄もいいところだ。

まず自分が潰れるほどなにかをしないで他人を潰すようなプレッシャーをかけるのは、弱いものが弱いものを叩く構造と大して変わんないじゃんと思ったりする。

しょせん、子供だって大した人間ではないわけで、どういう期待をしてるというのか。

 

 なので、自分の子供については、あとは、興味を持ったことに没入するのを見守ってみようかなと思っている。

所詮、認められないと生きにくいという欠乏型の動機で到達できる地点は限られている、と思う。我々は。