いっとき避難場所

日々是好日

一つの見方

世界には味方などいない

 

みな、自分よりも劣った点を他人に求め、自分の精神的安寧の道具とする。

あるいは、他人の好意を利用して、自分の身の回りの事を充足するために使う。

弱者や病人は食い物としか考えておらず、

要はマウンティングの道具程度にしか思わない。

経済的に貧しいものは富んだものの中に己にはあるが相手にはない点を見つけては見下し、

その逆もしかりである。

 

…というふうに思おうと、世の中は全てほどほどの助け合いのもとに成り立っていると思うも、わたしの自由である。

 

実際問題、少なくとも大きな損をしないように考えて生きないと生活はすぐに破綻する。

持ちつ持たれつとかそういうことは世の中において大事なことだが、

余力があってこその、そのようなお話であって、

本当に大変な時には他人というのは全く頼りにならない。

家族は運命共同体のときには多少は頼りになるかもしれないが、大変になる原因にもなる。

 

…という見方を病院によって教えられたと思う。

要は人を頼るなということであろう。

(もしかしたら、"わたしを頼るな"ということだったかもしれないけど。)

何よりもまず信用できないのは援助者だが、自分の人生はわたしがなんとかしないといけない。

 

かようにして、開いた分だけ縮みこむようにわたしの開腹手術が縫合されて、

わたしはさらに多くのことに期待をしなくなる。

 

わたしは他人を見下したり、プロパティで優劣をつけるということは、下品だと思う。

心の中でそう言った事をするのは、たまに自分の心を守るために必要である時はある。

弱っているときには、誰彼構わずそのような事をしないと心が持たない時があるけれど、根本的にはそれは自分の心を強くはしない。

だから、あくまで自分の心の弱さとして、そういう自分を受け入れるのだ。

つまり、わたしは自分の弱さのかぎり品のない人間なのだ。

 

…人が自分のことしか考えていないとか、見下されるのが嫌だとか、それは当たり前の考え方だけど、そこに安住するには多少幼稚な気がしたりはする。いちいちそんなもの強調するのは中学生のような状況であって、そこからスタートしてほどほどのところに落着するのではなかろうか。

 

他人を攻撃するとき、他人の痛みを想像するものは、フルパワーで攻撃することが難しい。

 

もう少し回復したらこのブログもやめて、ツイッターに戻るなりして、現実に専心したいなと思う。