いっとき避難場所

日々是好日

枝を掴む

どのくらいの強さで枝を掴んだら、上の枝に登ることができるのか。

 

体重を支えるためには片手なのか両手なのか

あるいは、足も使ってぶら下がらなければいけないのか。

 

一段上の枝まで上がれたときは、いい歳して嬉しいのである。

 

 

"いい年をして仕事もせずに

木に登ったりプールで泳いだりしている"

とも言えるし、

まあ"主婦業の合間に木に登ったりプールで運動不足を解消したりしている"

とも言えるけど、 たぶん、働くのも、家事をするのも、空間を切ってわたしが移動する運動の延長だ。

 

…家事はちゃんとやれなくてもやらなければいけないから、盲滅法に頑張るのだけれど、仕事はたぶんそういうわけにはいかない。

…いかないって思うけど、それを誰が決めたのだろう。

壁に手を触れる。凹凸がある。ひんやりしている。

世界に関わるというのは、単純に言ったらこういうことの延長だ。

 

"もはや希望の仕事について働くことは確率的に難しい"

という考え方もあるが、言葉にして眺めると其の語のほとんどに具体性のかけらもないことに気がつく。

 

木を登るとき

手をかけた枝がどんな形なのか、どんな固さなのか、ごつごつしているのか、しなるのか、触って実感していくが、

なにごとにつけ、それを確認することなく、

今みたいに、布団の上で寝転がって、いったい登りたい樹木が世の中にあるのかとか、よし見つかったとて、自分がその木に登れるのかとか、スマホを眺めながら呻吟していても、いつまでたっても、階段一段すら登れないことは間違いない。

 

んん、希望すれば どこにでも行けるのだ。

空気を押しのけてここから一センチ先に移動できる。

どこにでも行ける可能性がある。

 

死は明日訪れるかもしれないし(それならもしかしたらまだ、すこしホッとしてしまうかもしれない)、数年後かもしれない。

 

なんでわたしはこんなところでぼんやりしているのだろう。