いっとき避難場所

夏の白熊は冷凍庫の中に

散歩と苦痛

土曜日で

子供を夫に見てもらっているので、雨の日だけど散歩に出た。

 

街を歩いているだけで、よく気をつけてみれば、だいぶたくさんのものが苦痛であった。

 

まず、わたしは、20歳の頃からマックスマーラのコートが欲しかった。

…今思えば家族のために買った車だの、株だのに比べればまったく高くもなかったわけで、働いていた時に買えばよかったのだけれど、いま失業していてとても買えない。

本屋に行こうと思って入った、東急のマックスマーラのショーウィンドウの前を通る時に、見つけて、立ち止まって見た。

そういえば、いままで、ぼんやりしていて、気づかないふりではないけれど焦点が合わないまま通り過ぎていって、立ち止まってみることすらできなかった。

…コートが買えないこととか、わたしが今日擦り切れたクロックスで立っていることが、ものすごく苦痛である。

まるで、わたしはコートを見てるんではなくて恥と苦痛を見てるんである。

もっと以前からいえば、ボーナス一回分にもなんないものなのに、わたしは恥ずかしくて、買えば良かったのに買えなかったのだ。

それなのにずっと欲しかったしずっと欲しいと思ってるのである。

店員さんの視線が苦痛である。(店員さんが考えていることはわたしの思慮のほかだけれど)。

 

…さらに、これもまた、共働きであれば次は、違う車を買おうと思っていたのだが、いまその車を見るのがものすごい苦痛である。

なんでこの車を持ってる人はその車を買えてわたしはこんな状況であるのか。

ずっとぼんやりしていたけど、逆にぼんやりした時は苦痛があるからだと反射的に思うことにしてよくよく見つめてみると、そういう場合は何某かの不快感があるのだ。

今の車も好きなのだけれど、欲しかった車をいま、買える見込みがなくなったのはものすごい苦痛。

 

傘がすれ違った時に引っかかって、無神経に引っ張られるのが苦痛だし、

無遠慮にじっと見つめられるのも苦痛である。

 

苦痛にももちろん、レベルがあるから、

この程度かるく解離して仕舞えば忘れてしまうようなものなのだけれど、

そうしないように、と、トレーニング。

 

初心者コース。

 

苦痛を怒りにかえない。

眺める、噛み砕く、いずれわたしの一部になる。

 

そういえば

父母や弟が出た学校のある駅の前を通る時、長いこと苦痛だった。

これは離人症があってもぼんやりと飛び越えてくるくらい苦痛だった。

 19歳くらいの時、大検の結果が出てないけどセンター試験をそこで受けなければいけなくて、吐き気と胃痛で途中退出した記憶がある。

ものすごい離人症があったにもかかわらず、家庭から学校まで、お前はここにいるべきなのかという、針の筵にいるようであった。

怒りで振り切れて仕舞えば大丈夫なのだけど、試験でそんなことになるわけもない。

そこまでがなんとなく長いのだ。

 

弟が死んだ後にその駅を通ったが、苦痛が減っていた。