いっとき避難場所

夏の白熊は冷凍庫の中に

主訴

離人症、というか解離性障害だ。

 

たびたび、適応障害で悩むけど

ベースに離人症がある、気がする

いつもそれが苦痛なのだ。

ぼんやりしていて、ミスをするんだけど、波がある。

 

それが、ADDなんじゃないのかとか色々悩んでいたのだけれど、

そもそも、ADDかどうかよりも離人症が治したいんだな。

 

カウンセリングのはじめの頃に、昔の話をして帰ってきてからパニック発作が久しぶりに出たんだけど、

その時、自分何をやってるのかぼんやりしてわからなくなって、帰りに電車に乗ってそれこそ神奈川県の端まで行きそうな勢いでドアの外を見ていた。

その翌週のカウンセリングまでにやったことが完全に記憶からとんで、ヨガにいって温泉に入ったこと以外、全く覚えていなかった。

 

12才から離人症が完成するまでの16歳くらいまでの記憶を思い出すことがものすごい苦痛なのであって

すごい苦痛で話すのが辛いからカウンセリングを隔週にしたいと話したのだけど、先生はそれは心のオペと同じだという

たしかにそうだけど

普通に生活ができない。

わたしは会社に復帰して普通に働いて子供を育てたかった、はずだったけど、

実際、考えている間は昼間はつらくて動けなくなっている。

 

…でも、本当の本当は離人症を治したかったのだと思う

そのせいでわたしは高校からそのあとずっとぼんやりしていて、ADDだかガンザー症候群だかよくわからないけど認知症みたいな症状に悩まされていた。

 

10代の頃、わたしがそうなる前に、わたしの中で話し合いがあって(わたしは記憶が飛んで人格交代するとかそういうかっこいいことはないのだ)

現状大変すぎるから、しばらく痴呆状態になることについては仕方ない、という結論に達した上でそういうふうに認知症状態になった記憶があって(とても正気の話ではないけど)当面は戻れない、長い期間がかかるけど仕方ない、ということは理解してはいた。

 

無理なのである。

第一に、毎晩のパニック発作が大変だった。強迫神経症も大変だったけど、パニック発作の方が大変だった。

 

第二に、親は、わたしが"可能性がある"というふうに言われることが好きで、いいものを持っている、やればできる、というふうにいうのが好きみたいだった。

この子は普通の登校拒否と違う、天狗になって周りを馬鹿にしているから行かないのだ、という。

わたしは自発的にやりたいことが見つからなくなった。

永遠に発露しない可能性の塊じゃなきゃいけないし、ポジションキープのためにいなければいけないけど、どう考えても

確率的にそんなに自分が優れてるわけないだろう、と思った。

中学の頃にラディゲの小説を読んでたけど、わたしこんなの書けないしガロアみたいに数学ができるわけもない。

しかも、そうした人はみんなそういうふうにやろうという意欲があってやっているのに、わたしは自分に能力があることを示さなきゃいけなくてこんなに苦しんでおり、これは純粋な動機ではなくて病的で、まったく優れていない。

才能がないということだわ、と思った。

…まあ、ガロアとかラディゲまで行かなくてもいいとして、日本一すら無理だろう。才能というのはこういうもんじゃなさそうだ、と思った。

第1本当に優れている人はこんなところでつまづかないもんだと思っていたから、わたしは将来どうやって生きていくんだろうなあと思った。少なくとも家に居場所がない。学校に行かず、可能性だけで家庭内で食っており詐欺みたいにして生きてる。

さらに、可能性とか才能とかないと言われたらわたしは家に居場所がない。

弟は成績が悪いけど大人しくて愛されていて、反抗もしないしいろんなものを買ってもらえるけど、わたしは洋服も靴も外に行かないと言う理由でほとんど買ってもらえなかった。

 いつか家を出て、雪国の駒子みたいに生きたらいいかなあとぼんやり思っていた。

  学校の知能テストで135とかそのくらいだったということは、大したことないわけだ、というか、100人並みなわけで、日常的には困らないかもしれないけど、天才じゃないし努力もせずに親が思うようなものにはなれないということだ。どうしよう。どうやって生きていこう。

強いて言うなら好きなことは読書と、詩を書くことと、洋裁と、蘭科植物の研究なんだけど。

ピアノは好きだったけど、才能があると言われて、才能があると言われ続けなければいけない状況が大変だった。

 

第三に、母との関係が大変だった。毎日怒鳴っていて、何か気にくわないことがあると死んだふりをしたり殺人事件でも起こったかのような悲鳴をあげて、死にたい死にたいと言っていた。

お前を産むんじゃなかったとか、死んだら恨んで化けて出てやるとか、キチガイ、お前みたいな女は嫌われるんだ、不潔だ、と言っていた。

ガラスの割れる音がして、どんどんと足踏みをする音がして、わたしの部屋の前をうわごとを言いながら通り過ぎた。毎日起きて食卓に向かうと恨み言を書いた長い手紙が置いてあった。

 

"あなたは毎日わたしに不満ばかり言い大変な反抗をしている。よっぽどわたしに死んで欲しいのだと思います。生きていてごめんなさい、だけれど生きている間だけはわたしはあなたに良かれと思ってピアノをさせたりばばのつくった服を着せてあげようと思ったのです。全てあなたに良かれと思ってやったことなのでそれだけは信じてください。それにもかかわらずあなたがそれを不満に思ったことでどれだけあなたがわたしを恨んだか、骨身にしみました。いっそわたしは死んだほうがいいのでしょう。"

 

そんな感じの手紙が毎日。

わたしが一番言っていて母が嫌がる言葉は"放っておいて" だった。

ほっといてって言うけどあなた子供のくせに何を言っているの、と言われる。本当に放って置かれたらあなたが困るのよ。

とにかく何を言っても子供のくせにそんなふうに言うとは恐ろしいとか親を親とも思わない態度だとか言われて何も言えない、というか、ほっといてと言っても無理なので、自室のドアにガムテープを貼って死にたいと思って内側でリストカットをした。

でも、とにかく死ぬということは親がわたしを愛してくれているにもかかわらずやってはいけないことである、と思っていた。私立の小学校もなんの習い事もお前はほとんど行かなくなるからお金がもったいないと言われていたから、

わたしが陸橋から誤って落ちたなら親に保険金がはいるだろうか、自殺だとバレないように死ぬ方法があるならそれが一番よいが、痛いのは嫌だなあ…と考えていた。

とにかくがんじがらめで何をしても動くだけで怒られたような気がしていたので、疲れた。

 

母には、わたしが学校に行かなかなったからそういうストレスが溜まったのかもしれないけれど、学校に行かなくなる前からその手の争いが絶えなくて、朝から喧嘩して、数日の間何を言っても無視されて、空気のように扱われた。

子供の頃からそうだった。

幼稚園の頃からわたしが、母が気に食わないことをすると母は死んだふりをした。包丁を持ったまま台所に倒れて、揺すっても何をしても動かなくなる。わたしと弟は泣きながら、ごめんなさいごめんなさいと謝った。

わたしは一人で暗闇でカーテンに隠れてビルの夜景を見るのが好きだった。

とにかく何を言ってもまったくダメだった。

大人になって、精神的におかしいのではないかと思ってできるだけ母の話を聞くようにしたけど、多分その頃母の実家が没落して大変なことになっていたのでそれもあったのかなとは思う。

 

ある日の午後、リビングに置いてあった麦茶を作ってあったポットが空になっていた。

最後に飲んだ人が作り置きを入れる決まりになっていた。

わたしが最後に飲んだわけではないのだけれど、母が、麦茶のポットが空になっていたのを見つけて、またお前か!といった。

わたしじゃない、と言う言葉がどういうわけかその日は出てこなかった。

黙って自室に戻ったら、自分が笑っているのかまったくわからないけど、とにかく勝手に笑い声が出てくるみたいにわたしは笑いが止まらなくなった。

わたしは太陽と月の子供だというふうに思うことにしよう、と思った。

母は、親だから、親はわたしのことを愛している、すべてはあなたのためというけどわたしはとてもそうは思えない。

親はわたしのことを愛してない。そういうふうに認めることができないかったけれど、もうそれを認めて、そのかわりに私はこの親ではなくて月と太陽の子供ということにでもすれば良い。

唯野教授を読みつつエポケーとはなんだろうと考えていたころだった。

フィーちゃんが(カウンセリング中に名前がついた)体系を変更して仕舞えばよいのだと考えた。

考えなければパニック発作も起きない。

 

そうして、わたしは、離人症を発症して字が読めなくなった。

外界とわたしの間にそれまであった、意味のコードがわからなくなった。

コードが崩壊したといっても目的はわたしなりにあって、意識的なものであったから、場合により部分的に解除されたし、耐えられたけれど、結構な苦痛だった。

 

とにかくぼんやりしていて本が読めないし成績は一気に落ちるし、会話はできないし雑踏では人にぶつかるし、辛かった。

そのかわり、母にはバカにされるようになったので自然に期待されなくなって、喧嘩も減ったからそこはましになったし、母が怒ってまくしたてていてもわたしが言語的に反駁することができなくなったから親も暖簾に腕押しじゃないけれど、じきにわたしとの争いは終結には向かった。

 

 そうして、大学受験の頃はまだほとんど文字が読めなかったから、入れるところに潜り込んで、勉強なんてそっちのけで働いて、じきにアルバイトでお金を貯めて大学の近くに下宿を借りて引っ越した。

 大学に入ってからそれまではほとんど彼氏の家に居候状態で、学歴もそれなりにある人だったので母は認めたけど、わたしは一人で生活したかったのだ。多分今もそう…。

 初めて安心して眠れたと思う。

 アルバイトは、離人症はあったけど自分の生活くらいはなんとかやれた。

 でも、とにかく周りの人との関係がうまく取れないのことが苦痛だった。

 フローがあれば離人症がかなり和らぐけど、大学の授業でも、少し難しい言葉が出てきてわからないとなると一気に解離した。

 自分ができないということがこわくて、そこから先に進めない。それより前は分からなければ悔しくて、もうすこし意地になって考えていたところがあった。

…わたしはまったく、天才でも優秀でもないけど、そこから努力して考えればわかったこともあるはずで、

 本当はそこから一生懸命考えないといけないのにわたしは一発で混乱して解離してしまう。

自分ができないということを受け入れて努力をすることができない。

 

 親になって思うけど、できない子供を受け入れることは、親が善処できることなのだけれど、うちはそんな子供は居場所がなかったのだ。

離人症が辛かったけど元に戻そうとすると怖くて戻すことができなくて長いこと自分の決定を自分の意思や希望で行うことができない気がして辛かった。

 

会話中とかに反射的に意味的なコードが崩壊するというのはすごい苦痛だ。

 鬱もコードがわからなくなるなあと思ったけど、時間をかければある一定の理解は腑に落ちる。

離人症は膜がかかったみたいにコードの端が追えなくなるのである。時間をかけても無理。

 コミュニケーションの遮断であって、人と何かしらを共有しているという意識の遮断だ。

 

 でも、そうしているのは私の意思なのだ。

…と思う気持ちがくじけると、わたしはもうちょっと違う病気なんじゃないかとか、特性なんじゃないかとか

 怖くなってさらに諦めが入る。とりあえず希望の仕事にはつけたし、ぼうっとしているからトラブルは絶えないけど、長くいると安心感も出てきて離人症が少し薄まるからそれでもやっていけるようになる、そんな感じで十年くらい務めた。

 

 

しかしそれが辛い

とうとう、仕事も辞めることになった。

 

 

…本当は、そこから、どうするのか、考えないといけなかったんだけど、

状況が混乱した。

カウンセリングが無駄とか無為とか思うわけじゃないけど、苦痛を見つめるというのは大変だし、安心できる場所でないと、というか、安心して"発狂できる"くらいに思えないと、なかなか進めるのは難しいもんだと思う。

 

できない、得られない、それでも生きていける、故に努力する、

そういうふうにありたいかな…。