いっとき避難場所

日々是好日

失敗した援助関係

倫理要綱は鈍さの代償にはならないし、自他共に愚鈍さを他人を傷つけた理由にはできない。

わたしについては、それを受け止めなきゃなと思う。

 

わたしは、もうできなくなっちゃったけど、児相みたいな感じで、現場の判断で生き死にが決まるような仕事をしていた。ちょっと特殊。

 

わたしは、自分の仕事についても自分が失敗して傷つけた人がいることをわたし自身は忘れてない。そういう経験をさせてもらったことに感謝はするけど、許されるとは到底思わない。

その時わたしにはそういう風にしかできなかったことは事実なのだ。

気がついてないものもあるかもしれなくて、そういうものはいつか刺されるかもしれないけど、どうしようもない。

 

でも、逆のことも思いだす。
例えば自分が鬱の時や、親が倒れて大変な時に、ケースのことを思い出した。
状況の見通しをもらったり、あの人たちの苦闘からすごく大事なことを教えてもらって、なにより"死にたくない"とはどういうことか教えてもらった。気がする。

わたしにはわたしが、助けて(助かりたい)といっているのがいつも見える気がする。

だから、わたし自身がわたし自身をなんとか改善していきたいと思うわけなんだけど。

  

…それもあるかな。

先生を潰したいとかあんまり思わない。

しかしそのほかの人はしらん。

 

ただ、先生は結果的に、周りの人(カウンセラーとか事務さんとか)から助けられたことになるわけだと思う。

先生の立場からしたらそっちの方が重要なんじゃないかなと思う。 

 

たとえば、仲間が失敗した時に、仲間が明らかにこれは下手なことをしているということがわかっても、職場では、その場ではケースを排除して仲間をかばうことはあるかもしれない。

その場ではあのケースが人格だから仕方なかった、とか言って同僚をかばうけど、

実際問題は担当者が変われば人が変わったみたいにケースが落ち着いた人になっちゃったりして、要は、そんなことはわかってるけど、まずは仲間を庇うのは当たり前だと思う、自分の立場としては。

 

…あとで、当然誰かがケースのフォローをするのだけれど(わたしの職場だと先輩や上司がやったり、上の人がやったりする)それがむりなら、渾身の力で排除してそれで終わりにするしかないこともあるのかなとは思う。

ケースはなんとか生きたいと思っていて、担当者はそれをうまく扱えなかったからこじれたということもある。

人相手の仕事だとそういう、奇妙なことがたまに起こってしまう。

ごめんなさい!!!!!っていうケースだな。

 

わたしは(ラッキーにも)やったことないけど、人のは見た。

 

そういう場合も別にみんな、同僚をそしったりはしない(明らかに違法とか、公私混同だったら軽蔑して排除すると思うけど)。

 

 

わたしもまた、病人としては手に負えないから、現実的には見捨てられたという状況なのだとは思う。

そう思うと心が痛むんだけど、仕方ない。

 

大事なことは良くなることだ。

良くなるというのは、苦痛を取り除いて生きやすくして、幸せに近づいていくということだと思う。苦痛はいつも発生するけど。

 

…今回のことでは、流石にもう病院にいくというのは躊躇するけど(同じことがあったらもう生きてけないわと思う)、自分で自分を見捨てるほどのレベルではないと思う。

 

しかも、長年の苦痛が、これを契機に治るなら、新しい人生じゃないけどまあ、いいんじゃないのと思う。

 

しかも治ってみないと、その後どういうふうに生きるかというのはわからない。