いっとき避難場所

日々是好日

"心的外傷と回復"③

読み終わった。

 

虚偽記憶論争というのがあるらしい

ようは、記憶の復活を頼りに近親相姦の被害者が告訴を行った所、其の記憶が精神分析による捏造であると言われて、逆に告訴されて敗訴したという事件があったらしい。

それで、こうした精神分析による治療は役に立たないということで批判を受けた、と。

 

…それは違うだろうなと思う

とはいえ冒頭で著者がフェミニズムをわざわざ言明しているところが、確かに意味のあるところではあるけれども必要以上に社会と敵対する結果になっているのかなと思わないでもない

著者の言いたいことは

戦争被害でもレイプ被害や児童虐待であっても心的外傷に及んだ被害にあったということを訴え出ることができない文化(女性の件では確立した分野であるかもだが子供についてはいえない、故にさらに深刻にはなるが)がさらに被害者を傷つける、あるいはそのような外傷を与えることが文化的に容認されていることが問題であるということなのである(被害を容認する幅が

女性子供の場合は大きい)と思うのだが、フェミニズムという言葉は少なくともわたしのいる文化圏ではそれなりに先鋭的な言葉なので、なかなか難しいかもしれないなと思う。

わたしの友達は男の子で痴漢にあったりしたし、バナナフィッシュのアッシュなんかもそうだけれど、

おそらく男の子のレイプ はさらに語られない立場にあるかもしれない。

中井先生があとがきで書いているようにいじめもそうだ。

心的外傷というのは社会においてありふれた暴力の結果の一つだが、それなのに社会が恒常的に破綻していないのはそれに対抗しうるリソースとしての、人薬みたいなものが拮抗してきちんとあるからなのだと思う。

人は心的外傷に一人で立ち向かうことは難しい、と書いてあるし、確かにそうなんだと思う。

 

精神分析は力不足かもしれないし、

わたしの件みたいに、

フロイトがエッセイの中で言うように、

"怪物を呼び出しておいて帰るように言うようなもの"

として陥る場合があるかもしれないが、

しかしやはり人は一人では生きるものではないという観点からいえば、精神分析はコミュニケーションのエッセンスが詰まってるんだろうなと思う。

対人援助は回復の糸口となっても本来はおかしくない。

少なくともわたしは、自分の先輩を見る限りそう思う。

ま、わたしが今回陥っている状況についてもまるでありふれた当たり前の事柄のように述べられているのであって、なんだか少しがっかりするというか、いやになってしまうわ。

 

 

解離はどうかというと

解離のメカニズムが仮に客観的にわかっても解離しない人にはおそらく同様の感じをつかむことは難しかろうと思う。

ただ、当座を生き延びるための対策であって後回しにすることのリスクは大きい、というのはすごくよくわかる。

 

…読んでると、同じ程度の虐待を受けたとして解離の能力の有無が、BPDなのかD(I)Dなのかの分岐点になるという感じに読める。

  (実際解離が不完全な状態ではDDはBPDとほとんどおんなじにしか行動しないらしい。いい年をしてどうしてと思うくらい、絶望的なまでにBPDだ。)

 

Amazonのレビューをみると脳の器質的な性質からBPDは語るべきで、精神的分析的にPTSDを語ることには意味がないという意見もあったけど、

子供が成長して大人になる過程で脳自体が当然器質的に変わっていくわけで、全ての性格や育ちが全て遺伝の影響と言い切るのもまた極端であるなら、人らしい営みによって人らしく脳が適応して変化していくというのもまた当たり前だと思う。

どちらの側からでも脳は変化しうるし、病的な状態あるいは回復に到達すると考えるのが妥当な気がしたりはする。

 

 その虚偽記憶事件というもので精神分析は攻撃されたらしくて、日本の本でも相変わらずそういう内容の本が出てるらしいけど、

ハーマンはこの著書の中では、

訴訟それ自体だけではなくて訴訟するサバイバーの心理に関しても言及している。

すなわち、訴訟するのにはデメリットがあり、訴訟に勝つだけではなく、当然負ける場合もある。

それでも訴訟に出ること自体がサバイバーには意味がある場合がある、証言をすることによってである、というようなことだ。

本論の中では一貫して、治療のツールとしての精神分析について語っているのであって、裁判やパワーゲームにおけるそれについては語っていないように思える。(ただ、補稿においては少し違うような気がするけど。)

それを考えればその虚偽記憶論争というものが一つの議論の糸口になっていること自体に一定の意味があるとも言えるんだろう。

つまり、一歩深く進んだとも言えるのではなかろうか。

 

フェミニストというのが、わたしにとっても長い間嫌なイメージだったのは、理屈っぽい女というイメージがあったからだと思う。

どうしても理屈っぽい人というのがいる。

勝気な人というか、理屈こねる人。

前の職場の東大生がそうであって、わたしはこれをこうこう主張したら簡単に通ったわよみたいな話をされると、結構疲れたんだけど、その人はそうせざるを得ないわけだ。

たぶんwinwinのリラックスした関係を作ることが難しいんだろうと思った。

この人は負けられないのかなと思った。

その時は自分に余裕がなかったのでそうとしか思えなかったんだけど、負けられないということは、他の負けられない人と当然衝突するわけだから、生きにくかろうなと思った。

(.結局当時のわたしにもその気があったのだ。)

 

そういえばこの本の中にも 心的外傷から回復して主張するようになったことで家庭で諍いが起きやすくなった場合があるというのがかいてあったけど、

わたし的にはこうした回復後の主張と、例の職場の東大生みたいな主張は、仮に双方がフェミニストを称していてもだいぶ違うような気がする

神経症フェミニストと健康的なフェミニスト

みたいな。ただどちらも大事なことだとは思う。

 

なんだっけ

いろいろつらつら考えているんだけどうまくまとまらない。