いっとき避難場所

日々是好日

醒める

今回、ここにきた日に森田正馬の本を買って読んでいたのだけれど、

なんとなく夢から醒めたような気分でいる。

 

わたしは弟が、父母と同じエスカレーター学校の小学校に上がった年から不登校気味になって、小学生から学校に行かなくなって中学もほとんど行かず、高校もやめてしまった。

父母はまあ、弟が可愛かったのだろうと思う。

わたしがいなければよいと思ったかもしれないけど

わたしなりの理由はあったし、切実なものではあったけれど親からしてみればなぜそんな要求をされるのか理解できなかっただろうから(いじめとか)、仕方がなかったかもなと思う

 

たしかに、離人症的な、いつでもぼうっとして、自分が自分ではないような感じは思春期の頃からあったし、パニック発作も強迫障害もあったのだと思う。

それがために文字が頭に入って来ないとか

いろんな悩みはあったのだけれど、

まあ一応大学を出てきちんと就職をして結婚もして、共働きでなんとかやってきたところはあったわけだ。

 

育児は本当に嫌になる。

仕事はそのために制限されるし、やりたいことも全部はできなくなる。家族…弟も失った。

 

わたしは失速するわけなんだけど

 

 

この二年間というのは一体なんだったんだろうか

無為だった

のだろうか?

 

 

意味があるとするなら

去年末に心療内科をやめてから

逃げ場がなくなって、

徹底的に自分と向き合ったことになるのかな

それだろうか

 

疲れ果てて、逃げ場としての精神科であったかとは思うけれど

もはや逃げ場がないということが最もわたしにとっては役に立ったのかなと今にしては思う

 

 

おそらくは

仕事を続けるかどうか迷っていて心療内科にかかったのだけれど、仕事は好きでも他にやりたいことがあったし、

たぶん、できない理由を探して妄想の中に迷い込んでいるばかりになっていたのだと思う

 

とかいうことは

そんなに考えたって仕方ないことだなと思う

 

山荘の本棚に、ダニエル・ソローという人の、"証明の読み方考え方"という本があった。

数学の本なんだけど、ある問題を解くときに、求めるべき結論から、具体的に何を証明すべきかを読み替えていくことを後退過程、与えられた前提から結論に至るまで変形を重ねたりしていくことを前進過程、というふうに考えて、ようは両方並立させていくもんなのだということが、初っ端のところに書いてあるわけなのだが

(ようは数学的な問題解決は読み替えと変形と迷路ゲームなのである!ってことなのかなと思った。)

心の問題も同じように、両方行っていくことが必要なのだと思う

 

"心の病が治癒すれば、よりよく生きることができる"

 

というのがたぶん証明すべき問題

 

本に従って"後退的"(証明すべき事柄の読み替えからはじめる)に考えるなら、

よりよく生きるとはなにか

苦しさが取り去られること?、

生き生きと動けるようになること?、

人と交わることが楽しくなること?

そのためにはどうすればよいか

 

 

と考えていけばよいわけで、

 

逆に前進的に考えると

心の問題とはこのように育ったとか、あのように扱われたとか、そのためにこの状態に陥っている、故にこれを解決するためには考え方を修正し、服薬しながら云々かんぬん、

 

…後進的、前進的、両方からのトンネル掘り下げが出会って貫通した時に、命題が証明される

 

と、いうことになる。

 

のかな。