いっとき避難場所

日々是好日

"あるがままのある"

"あるがままのある"では、草も木もそうである、山も河もそうである。"ある" が "ある"でないことがあって、それが"あるがまま"に還るとき、それが本来の"あるがままのある"である。

人間の意識はこんな経過を通ることになっているのである。

 

 

"あるがままのある"が否定道を辿って、またもとのところに還る様態に日本的なものがある。これを日本的霊性の超出と言う。それは何かと言うに絶対者の絶対愛を見つけたことである。この絶対愛は対象に向かってなんらの相対的条件を付さないで、それをそのままあるがままの姿で、取り入れると言うところに日本的霊性の直覚が有るのである。

 

鈴木大拙  日本的霊性

 

森田正馬鈴木大拙とどちらが年上かというと

鈴木大拙の方が四つ上らしい。

ただ、大拙の方がずっと長く生きた。

さもありなん。

 

日本的なものを定義されるなら日本的でないものが定義されて納得されるべきなんだけど、

頭の中にそのインプットがわずかしかないため、にわかにその通り!と言えないのだな。

 

心理学でいえばあまりに古すぎるとは思うけど、精神分析が西洋的だとして、それで神経症の西洋人が治ったとか良くなったかと言うとどうも必ずやそうでもないんじゃないかと思わないでもない。と、いうかその辺よく知らない。

 

そうして、"その"経過や様態が一体日本独自のものであるかどうかよくわからない。

 

あと、野口晴哉みたいに、そもそも否定道を通らないような人もいるのかもしれない。

否定道を通り(人により一瞬だったり通らなかったり)、そして戻ってきたその、戻り方やら戻った時の特徴やらが日本的であるとするなら、野口晴哉も日本的霊性のような気がする。

 

言葉と宗教とか精神療法は強く結びついているだろうから

たぶん言葉の性質とか相性とかを考えてみてもいいのかなとは思う

そういえば、わたしはCBTは職場研修で心理士の人に習っただけなんだけど、たしかに悪くはないけど、なんか違った。

じめっとした感じがないというかうまくいえないけど。

そんな簡単に割り切れるかよ!ってちょっと思った。

そこそこきいたけど、悩む事の価値を無視されてるような気がしてちょっと傷ついた部分もあった気がする。