いっとき避難場所

日々是好日

自分しかいないわけではない

去年の12月頃から今年の夏前あたりまでが人生で一番鬱だった

パニック発作はほとんど出なかったけど離人症はそれなりに出てた

 

その頃は、自分しか見えなかった。

仕事を失ったとか、それはもちろん苦痛だったけど、今思えば自分の中にある問題に拘泥してるだけで、苦痛はあったけど半分以上は記憶に苦しめられてるだけだった

 

現実に仕事がないこととか、現実に自分が二年間を空白に過ごしたこととか(要は歳をとったということ)、そんなこと直視していやしなかったのだ。

 

最近やっと主婦として

できてない部分はあるけれども、安定してできることをやれるようになったんだな、と思う

できるようになった、から、できてる、になった。

 

助けてくれる人のおかげであると思う。

 

だが

要は現実に直面するというのがまた辛い

 

じゃあ何するの

元の職種に戻れるの?

…すごく気持ち悪くて無理な気がする。

医療福祉系が気持ち悪すぎてもう無理なんじゃないかと思う。

 

長く医療福祉系にいたので、基本的に医師というものをわりと尊敬していた気がする。

そもそもが大変な激務だし、責任重い中で、この世は地獄だとか言いながらも地域の救急を続けられたりされているところを見ていて、きっと、内心こんな高齢者を助けてどうするのだと思いながらも、家族の期待や本人の苦痛にこたえて黙々と処置するのはどんな気持ちかなあといつも考えていた。

 

仕事を辞めてしまってからとみに思うのだが、

どんな仕事でもそうだけど矛盾に負けて投げたらだめなのであって、矛盾に耐えながら立派な仕事をするというのはすごいスタミナがいることだったなあと思う。

単に、する価値がないとか矛盾があるとか、それだから辞めてしまえというのではだめなのである。

とりあえず続けてみるというのはそれなりに理屈がある。

他にやりたいことがあるのでやめるというのは、計画的に辞めることになるので、それが正しいと思う。

(そういう意味で、復職して一週間でパニックになって辞めているわたしはほんとにだめである。

その時点でもう、家族のことも考えていないし、先のことなんて何も考えてないし、傷病手当をとることすら考えず、目前のことしか考えていなかった。)

 

 

…ただ、そういう、医者が言っていることだから何かしらの理があって、良くなるはずなのだみたいな盲信は自分の身に引きつけてみればなんの根拠もなく、ばかだったなあと思う。

自分にとって、医療福祉は単に仕事というよりも自分の実存的な興味とか社会的なアイデンティティーに近い何かがあったけど、他人がそうとは限らないし、そもそも自分がそれにより他人を幸せにできていたかなんて、まったくもってわかりゃしないのである。

所詮、行うべきことは今思えば、正確な技術運用と、多少の自己満足である。

 

…仮に医療者がものすごく誠意があったとしても、アセスメントすることや、処置をしたり病名をつける権限が個人の幸せにとって最適に使われる保証はどこにもないし、その結果で前より不幸になるということはありうることだ。

医療福祉であるという理由で、スーパーとかレストランとかそういうのに比べて誠意のようなものの上乗せを期待することには、何にも根拠がない。

 

健康を含めて自分の命運は天命に従うか、自分で左右するべきなんであって、人は自分を誰かによくしてもらおうと期待するべきではない。

自分が持つ能力や知識以外のものに、自分の幸福や価値を上げる何物かを期待してはいけない。

 

…例えば、期待するほど麻酔で末期の苦痛が取り去られるということはなく、認知症の本人が幸せになれるわけもないらしく、

肉体的にも精神的にも、第三者の支え的にも、自身が苦痛に耐えられるような人生を選んできたことが何よりの幸せである。

逆にいえばそういう人生を自力で選択しないといけない。

 

 

もし、医療福祉で偶然にでもいっとき良くなったとするなら、ラッキーかもしれないが、それすら、ほかの選択肢と同じく、結果的に幸せかどうかなんて誰もわかりやしないのである。

 

人は、生きて死ぬだけなのだ。

 

そうして、医療福祉で幸せになるとしたら、それは、たまたま技能のある、善意の第三者に当たったということで、医療福祉で幸せになったというよりも、その出会い自体が幸せなのであって、そこに感謝するべきなのだ。

それは医者でもソーシャルワーカーでも、ウェイトレスでも学校の先生でも、なんでも同じである。

 

幸せになるべく選択をするものが幸せになるのであって

幸せにしてほしいと選択をするのは、たぶん何かが違うのである。