いっとき避難場所

日々是好日

じゃあどうしたらよかったか、ふたたび

今年の春頃、離人症の解決は喫緊だったから

必死に取り組んだ結果今はそれに悩まされていない

離人症自体は、個人の内面的な苦痛の問題で、外から見たら大した問題ではない、と、言うけれど

自分の感情が自分でわからないというのは、危ない。

今更だけどそれが骨身に染みて分かったのはわからないことに比べて良かったと思う。

そのせいで多くを失ってきていたと思うので、今なにも言えずに泣き寝入りということはない。

いまは子供のことでも自分のことでも、

それが良いか悪いかはわからないけれど、いいたいことは概ね言っている気がする。

少なくとも言えなくてモヤモヤしたということもなければ言わなくて良かったと思ったこともない。言ってしまった、と思うことはあるけれど、言わなかったとか言えなかったことに比べて後悔の程度が違うかというと大して違わない。

 平凡な生活における苦痛というのはそれだけで全然違う。

一つ一つの感情をきちんと感じるということは割と大事だ。

一つのミス…例えば何か払い忘れたとかそういうどうでも良いことで、解離してしまうとなんとなくずうっと不快になる。

そこは治ったので、それはそれとして話が済むようになった気がするので良かった。

 

そんなことは大したことがないというのは、経過して初めて言えることなんである。

 

二年前、カウンセリングで、母親のせいで◯◯になったというふうにあらためて思い始めたので、

年末に母のところに泣きながら文句を言いにいった

 

しかし、そんなことは全く解決しなかった。

傍観しているおばは話を聞いて泣き始めたけど母は全く意味がわからないという顔をしていた

 

しかたなく、母がごめんなさいねという時に、いつまでこんなこと言わせるのという言葉が付いてくるのでむなしかった。

そのへんからカウンセリングが座礁した。

 

それよりも、自分の離人症というか解離がやばいと思ったあとに、辛いことを延々と思い出すとか悲しい感情をひとりで味わい続けるとか

そういう方が自分のためには良かった。

辛いことがあんまり辛くなく感じるようになった時に

母についても、やってくれたことやお陰でここまできたのかなということがわかった。

感謝というか、悲しさのようなものがふと出た。

弟を失って、わたしが病気になって、他にやりようがなかったのかとは思うけれど

とりあえずわたしは生きているということで。

 

今回についても失ったものは仕方がないのである。

気がすむまで悲しむしかない。

本質は、悲しかったということだと思う。