いっとき避難場所

日々是好日

同じ状況違う気分

最初に仕事を辞めたいと思ったのはパワハラが激化して、子供の預け先にも毎日難渋していた時だった。

もう限界なんではないかと思った。

でも、そんな疲れた状況で仕事を辞めるという決断をするのは良くないと思って、一回考え直す時間が欲しいと思って休職の診断書を取りに行くことにした(要は辞めたくなかったということだろう)

 

それで、その時は、もし仕事を辞めたら地域のことをやろうとか、学校に行こうとか、子供の遊び場を作ろうとか色々考えていた。

 

で、治療を半年してから上司の理解もあって、短時間で会社に戻った時は会社に戻れたというのは嬉しかった。

通院がものすごく辛かったから。

通院が終わったというのは嬉しかったけど、半年の間何にも現実的なことは変わっていなかったし、ずっと死にたいという状況になっていた上に、昔人にされたことばかり思い出して怒りっぽくなっていたので会社の人との軋轢にも耐えられなくて一週間で辞めることにした。

 

 

そのあとは基本的に三ヶ月くらい手が震えて、嫌なことばかり思い出した。

三ヶ月くらいして少しずつ外に出ようと思って、友達に会いに行ったりし始めて、仕事もちょっとしようかなと思った。友達から仕事…アルバイト?の話もあったし、戻ろうかなと思ったのだ。ケアマネの講習も申し込みして、来年はセンター試験でも受けて大学行ってもいいかな…と思った。

 

それで、その方向にうごこうとしていたところで、先生から誘われて病院でバイトした。

が、雇用主でもある医者は、まるでわたしを、家具とかペットみたいに扱っているように感じてた。(医者はアルバイトはリハビリでといっていたから、そんなつもりはなかったかもしれないけれど。実際なんで私がそんなに自尊心にダメージを食らったのかが自分でもわからない)

そうして、担当のカウンセラーからは倫理違反だと指摘されて、とにかく臨床心理士と事務からはこのバイトが終わったら二度と病院には来ないように言われていた。

ちなみに、その時に、事務とかカウンセラーから言われたことがどうしても納得できない(言ってることや内容や向こうの気持ちはわかるけど、わたしの気持ちとしてとても受け入れられない)。

 

で、医者からは二ヶ月先まで予定を提出させられていて、ケアマネの講習とかも全部変更していたのが、ある日突然、医者から来週までで良いと言われて、ぶちっと何かが切れた。

わたしに伝えられていた予定というのは古くて、最新版はメーリスで伝えてたと。でもわたしは患者だから誰のメールも知らない。聞けば良いと言われたが、変更の有無自体を知らないのに変更内容など聞けるわけがない。

疲れ果てて限界だと思って、

それで、先生はひどいし失礼だしもう来ないと言ったら何を偉そうにとか怒鳴られて帰った。

そのあとの鬱はかつてなく酷くて、半年くらい動けなかった。

 

…ま、お手伝いなんてそんなもんでしょうという考え方もある。

でも、わたしの仕事とかわたしの人生とかそういうものは全く誰も考えていないんだなと思われる。

たぶん、わたしが友達のところでバイトしようと思ってそれを話したこととかは、先生は"聞いてなかった"のではないかと思う。

誰もが状況の維持しか考えていないのでそうなったのではないか。

 

時間が経ってみれば、

転移という現象は全く個別の理由によるものとはわたしからは思えないのである。

あの医者じゃなくちゃいけなかった理由は全くないし、バイトする患者がわたしでなくちゃいけない理由もない。

ひどいことを言われたけどひどいことなんてそれまでいくらでも言われながら生きてきたわけでこの二年間の没落ぶりは一体なんなんであろうか。

 

 

思うに、昔のことをひたすら目的なく話すカウンセリングは、少なくともたぶん良くない。

自分が変態なんじゃないかとかもうダメなんじゃないかとかそういう気持ちだけあって、社会性がどんどん剥落していくのだけれど、どうにもならないのである。

わたしは記憶が焼きつきやすいから、こだわって抜けられなくなったのではないか。

神経質というか変質者というか。

 

森田正馬が本の中で言ってる。

 

フロイトは感動(ショッキングな?)体験の過去の抑圧を解き放つことを目的としたが、体験が焼きつきやすい体質というそれ自体が変わらなければ結局は神経症が繰り返すだけであると。

その悪循環を繰り返す心の機構自体を破壊するということが大事なので要は行動療法みたいなものが必要だと。それは身の回りの世話から始まって社会性のある行動に広がるわけだ。

 

ハーマンの本でも自助グループを使ってるけど、人の集団…社会の中で自分の性質と折り合いをつけていくという状況に落とし込まなきゃいけないということなのかなと思う。

 

パッペンハイムの伝記を読んでいて思ったんだけど、

カウンセリングで昔のことを正直に自由に話させるというのは、人が何故それを抑圧したり隠さなければならなかったのかという観点が欠けているような気がする。

その動機は社会性であったり、他の人と折り合いをつけてうまく生きのびたいたいという気持ちなのではないかと思う。

 

自由に話した結果として、わたしはほんとうは、仕事も辞めてあいつが嫌いだったしほんとはやりたかったし、酒池肉林でウェーイでいいんです、というのだけ残る状況では結論として、変態であるということだけが残ってしまって、社会的な人間としてそこからどうやって抜け出すのか全くわからない

変態でいいですなぜならみんな変態だからです、そのように人は思慕するようにできている

本当にそういうものなのか?

そーじゃないですよね、と思う。

 

犬から人に戻るにはどうしたらよいのか、ということと、

仕事を辞めたり、ぼろぼろのぐちゃぐちゃである自意識をどのようにして、人並みに上げていくか、という、

感じだ。

人並みというのは、本当に"人間並み"という意味だなあとしみじみ思う。