いっとき避難場所

日々是好日

痛みを反芻する

今まで、必死に考えるか何も考えまいかのどちらかであったが

今夜はなんとなくぼんやりと考えている

 

気分はニュートラルである。

 

ぼんやり考えたい気分の時もある。

 

寝なくても死なないし。

 

道筋がわからず右往左往しながら進むとミスが増える

仕事もそうだ。

今日仕事でどうしたらミスがなくなるか考えてたの

 

道筋が頭の中にパッと出てくるときはミスが殆どない。

それだろうな。

物事は凡てそういう風でなければなあと思う。

 

そのように生きることにすごく絶望感があったんだけど

それでよいしそうでありたいと今は思う。

それが自然ならそれがよい。

 

お母さんがわたしをみてお前は恐ろしい、

全部わかったような顔をして、というふうにいうのだ。12歳くらいかな。

その時のヒリヒリした気持ちを思い出す。

 

離人症を治すということは

わたしはわたしのままで、その痛みを受け止めるということだ。

 

だから、なんとか療法的にいうなら

頭の中でもっと嫌ってみやがれではないけど、そういうかんじ?

嫌なことを言葉にするのではなくて痛みを反芻するのである。

 

…たとえ話ではないけれど

…わたしのなかであのとき、分離してしまったフィーちゃんが、その時に感じた痛みを取り戻すのである。

…フィーちゃんは行動の中に宿っていて無心の時にきちんと出てくる。だから、大事な時にはちゃんとできるのだ。

離人感と、この分離している感じはだいぶ違ってはっきりとフィーちゃんがわたし自身になるときは、迷いのないときというか、捨てられないものがかかっているときだ。

でもそれ以外の時はわたしはわたし自身でいることが怖いから、ひどい厚着をしてぼんやりとして過ごしているような感じだった。

子供の頃のことを思い出していて、最初に神経症チックな行動を取り始めたのはいじめの後だったなと思った。

 

わたしはわたしでいることを放棄したのだ。

 

離人症というだけではなくて、といって記憶が飛んだということもないし、フィーちゃんはきちんとみているから、大事な時にはきちんと出てくるのだけれど。

 

大事なことは孤独を恐れることではないし、

ぐたぐたかんがえることでもない。

 

行動だ。それだけが、わたしなのだ。

 

なんっていう

たとえ話みたいなことだ。

 

これは他人に話すことではなくて

自分のために自分がどういう風に振舞ってきたのかということなのだ。

これを病気というなら直すべきは自分なのか、現実なのか。

すでに脅威ではないことを脅威だと感じてそのような行動をしているとしたなら、解除のためには恐怖感をスルーしてかないといけない。

 

多分どっちも必要なのだ

考えすぎて行動しないのはいけていないが

行動することで考えないようにするのもいけていない

自然に湧いてくるものはそのままにしておくというのがセオリーなのだけど、

人は大概考えたことと感じたことの区別をつけられない状況に陥る。

後者はそのままにしておくべきだし、そのままにならなかったから病んでる状況であるなら

逆に感情を掘り起こして放任しておく練習は必要かもしれないなと思う。

大したことじゃなくてそのひどく痛かったことを何度でも思い出して、痛い気持ちを感じればよいだけである。わたしの場合は。