いっとき避難場所

人間万事塞翁が馬

カウンセリングと感情

 カウンセリングという場に行くと、わたしは起こったこととか、今までのことをよく話した。

 家族のことも話したけれど、

 話せば話すだけ、辛くなった。

 

 …なんでそんなことになったのか、何が起きていたのか未だにうまく説明できないのだが、

結局何も起きていないというか、カウンセラーとわたしの間に相互的な信頼関係がなかったのかもしれないなと思う。

 医師とわたしの間には自他を混同するくらいの極端な信頼があったけど、カウンセラーについてはわたしは状況説明に徹してしまって、自分の感情が伝えられなかったと思う。

 カウンセラーが、わたしは自分の感情を話さない、と最後のほうにいったけれど、自分もそのことでどんどん辛くなっている自覚があって、"それはわたしが安心していないから" と話したのを覚えている。

 辛い話を説明するのだが、自分の感情が出てこない。夢の話をする時には微妙にそれが出るけれど、それ以外だと事実しか話せなくなる。

 

 ま、事故に近いんだろうな。ラポールを取れていない相手は単なる"耳"だ。しかし、対話の相手から直接の反応は期待できないわけだから、詳細な事実の説明だけになる。よじれた構造の中で感情の伝えようもなく、感情に関する説明をして、事実だけを話し続けることがたぶん負担だったのだとは思う。

 

 フィードバックというのは大事だ。

 ちょっと眉をひそめることとか、ステアするタイミングとか、ノンバーバルなシグナルがたくさんの内容を伝える。

よくわからないんだけど、私はカウンセラーと名のつくひとで、わたしに対してこれがうまくできる人にあったことがない。

 

 …で、カウンセリングを続けることで解離が進んでしまって、自分の感情がさらに自覚できなくなった。そのうち、自分の中で複数者の対話めいたことまで始まって、自分が明らかに病気だと思い始めた。

…話すことで状況がよみがえり、感情をもう一度抑圧して話すことで自分を再度押し付けるような状況になる。惨めで辛いとか死んでしまいたいとかいうのだが、カウンセラーは傾聴してくれるがその原因がなにかについては追求はしない。

 

 わたしは話を聞いて欲しいかもしれないけど、状況をむやみやたらと言葉にして説明をしたいわけではない。それは傷のかさぶたをバリバリ剥がすだけだからだ。

 と、いうよりも、ひどい体験をしたかもしれないけど、その体験の感情と言葉が乖離してしまっているのがわたしの抱えている問題の一つなんだと思う。

 でも、普段は思い出さないようにしていることをわざわざ思い出して、同じような言葉ではなす。

しかも、その時に、他人の視点で話すのである。話を聞く他人の視点で話すので、本当の意味でわたしの中でそこに他者がいない。

 

 他者に期待ができない、他者に助けを求められないというのがもしかしたらメインのテーマなのかもしれないけど、

カウンセラーはそもそも他者でもなかった。

 

…という話をカウンセラーにできなかったんだと思う。

本来それをそのまま話せればよかったのだ。

 

考えていることを、相手にぶつけて理解を求めるということを、ものすごく相手を選んでわたしはやる。

うまくフィードバックが帰ってこなければほぼやらなくなる。

(ただ、家族は別だけど…。)

 

起こったことを淡々としか話せない。

共感を求められない相手に淡々と、辛かったことや事実だけを感情を排して語るということを一年やった。

そのせいかわからないけどとにかくぼろぼろにはなった。

誰だって心の通じない人にプライベートな話なんてしたくない。友達にしたほうがマシである。

 

 …援助職の道具というのは自分自身だ。

自分が気がつかないものには、反応できない。

 

 動機と手段がうまく方向一致しなくなってしまっていたのがたぶん、運が悪かったんだろうなあと思う。

 

そういえば、 カウンセリングを終わらせて、一ヶ月くらいしてから、自分の中での複数者の対話は無くなった。必要がなくなったんだと思う。