いっとき避難場所

人間万事塞翁が馬

素直ではない

わたしは見つけてくれた人の眼差しの中にいるのだ。

 

わたしは父母により発見されてはいないかもしれないけれど、

例えば祖父母により発見されていたかもしれない

 

人を発見するというのは

怒ったり、悲しんだりする裏側にある希望を理解するということだろうか

人は前を向いて走るからけして背中を見ながらは進めない

人を発見するというのは、たぶんそれを見て、眼差しのかたちで戻してあげるということかなと思う

 

   数ヶ月前のある日にこどもが、僕は嫌われているから幼稚園に行きたくないと言った

 ぼくがおもちゃをあげなかったらあの子達は遊んでくれない、といった。ぼくには友達なんていないし、友達なんか要らない。

 

 …でもそんなこと、とうの、"あの子達"は意に介していないのである。たんに、要らないおもちゃをくれるといっていると考えていたかもしれない。

 

  "ぼく"は、友達から嫌われるのがつらかったのだ。

遊んでと言ったり、言われたりしたかったのだ。 そうしてつらい気持ちを怒りにした時に責められることが、かれが、遊んでほしいと思っていることとは逆方向に事態を拗らせて、なおさらかれが避けられるようになる。

 たぶんかれはずっとつらかったのだなとわたしは思った。

 

 そうしてそれは、わたしが長いこと見つけてもらえなかった自分自身でもあったことに気がついた。

 わたしも長いこと強がっていた。

 みんなそれでわたしのことを責めたけれど、わたしもつらかったのだ。

 わたしも友達に誘って欲しかったし、溶けるように一緒に遊びたかったのだ。