いっとき避難場所

人間万事塞翁が馬

片付けるのはめんどくさい

片付けるのはめんどくさいなあと思う

食器を洗うの嫌だなあと思う

 

たぶんいつも思った時に、嫌な気持ちを感じないようにして体だけ動かしていたのを

思い切り嫌だなあ嫌だなあと思うことにした。

 

嫌なんだけどやることと、嫌だけど嫌なことを忘れてやる(解離して)ことはだいぶ違うみたいだ。

嫌なことを嫌々やることにすこし慣れると、人に要求することがだいぶ楽になる気がする。

嫌われるかもしれないけど聞いてみよう、という感じになるから、眠いけど食器を洗うのも他人にお願いするのも、似た感じの負荷になる。

 

今まで嫌なことからどうして目を逸らしたんだろうなと思う。

 

負けたくない、もそうだ。負けたくないけど努力もしないから負け続けでぼんやり解離しながら生きてきた。

…負けたくない、とか、負けたら生きていけないとか、それは一足飛びにそう考えて仕舞えば恐怖以外の何物でもないし、どうしようもないんだけど、

わたしの、負けたくない、というのは許してもらえない、というときの気持ちに似ているなあと思った。

わたしは自分の子供に"頑張ったねー"っていうようにしているんだけれど、

わたしの実家からは "なんだ、頑張らないとできないのか"、というプレッシャーがかかっていた気がする。

と、いうか、経過なんて誰も気にしてないのである。

みんな小学校からいい学校に入っているからかなあと思っていたのだけれど。わたしはそこにおちて他の私立に行った。

 

…頑張らなくても出来る人はそれで良いとして、

そういうプレッシャーに打ち勝って生きている人も世の中たくさんいることを知っている。

それで負けた人も知っているし、勝った人も当然。

 

考えてみれば、わたしはそういう戦いから最初に脱落したんだなあと思う。

以来中途半端に負け続けてきている。

 期待されたくないというのと、期待されないと、この場所にはいられないという変なジレンマの中で生きてきたと思う。

それは突出してなければならないと思ったけど一番になれるわけがないという考えから導いたものかもしれないけど。

 

他人に負けるというのは仕方ないとして、

自分の人生を諦めて負け続けるというのはやっぱりおかしいと思う。

自分が獲得したいものや自分が嫌なものは、人より評価されるから欲しいものばかりではない。

欲しければ納得するまで頑張るべきなのではなかろうか。

だけれど、できないことから逃げながら目的だけ頑張ってもそれはなかなか上達しない。

いまはできない(でもできるようになりたい)ことを認めないとだめなのだ。

 

親が、例えば、わたしが父母と弟が出た学校の大学受験に失敗した後に、親がうーむ、という顔をして、

"お姉ちゃまは勉強したってあなたの今いる大学に入れなかったわけだからあなたは頑張って卒業しなきゃダメなのよ"

と弟に言ってたけど、わたしはすごく嫌だった。

わたしが大検をとってから勉強をして、少なくとも早稲田あたりまでは受かったことは全く親は何も言ってくれなくて、わたしにしたコメントというのは唯一それだけだった。

わたしが優秀じゃないから負けたわけだから仕方ないけど。

 

…って思ってたけど、

一体わたし何のために受験してたんだろう。

小学五年生から学校に行かなくなって、大検をとって、服飾学校に行きたかったけど親が大学に行けというので大学を受けて、何がやりたいかもはっきりわからないので学際分野のあるところばかり受けた。

勉強は、ぼんやりしすぎていて何がわからないのかわからないし、ひたすら繰り返して多少できるようにはなったけれど、なんでできないのか何ができないのかずっと混乱していた。

例えばバタフライなら、できない時に何ができないのか考えて、一つづつ戻ってやり直すとか練習するのだけれど、勉強はわからない時にどうしてできないのか考える余地もなく混乱して怖くなって、盲滅法になってしまった。

 

 大学も、一応出なさいといわれたものの、偏差値があまりに低いところだと家の中に居場所がないので(使い物にならないとか父親に言われそうで)、いわゆる学力的なヒエラルキーからずれたところを選んだ。

わたしはたしかに、変人だし、使い物にならないし、みんなから誹られるような仕事だったから仕方ないのかもしれないけど、わたしとしては可能な限り希望の仕事にはついたつもりだったんだけど。

わたしは、父はともかく、母や弟に自慢できることは、早くに家を出てアルバイトでもいいから自立して、ちゃんと正規に就職して働いたということだけだった。でもそういうことは家ではあまり認められるようなものではなかった。働いてお金を稼ぐことより、大学に残って学者になるとかそういうことの方がみんな好きだったらしい。

 

 仕事は、家族と病院の先生以外は、基本的にパワハラの人を除けば、やめた方がいいとかそんな仕事はどうにもならない奴がやるものだとかいう人はいなかった。やめないほうがいいとかもったいないとかそういう意見が多かった。

 思うに、たぶん両方ともエリート?だからそういう風にいうのかな?とも思ったけど、結局、両方ともひとの経済的な自立とか、今後の人生の見通しみたいなのは全く考えていない??のかなと思う。

辞めたほうがいいとかそんな仕事はどうしょうもない奴がやるもんだとかいうけど、それでも仕事があれば働いて稼げるわけだから、就職おめでとうとか、なんとか仕事を維持しようとか、そういう視点には、家族は立たない。

さらに、言われるわたしも自分の仕事や大学を卑下しており、こんな仕事をこんな学校を出てやってるうえに、いつもぼんやりしていて変人で、どうしようもないと思いつつ、

一人で暮らせる経済力のあることと、好きな仕事であって、それでも働き続けるということが魅力的で、周りの人にも恵まれたのもあって、いつのまにか十年くらい経っていた。

子供が大変だったことで、継続できないかもしれないと悩み始めるまで。

でもその時わたしは、本当は何が苦痛だったんだろう?。

ぼんやりしていてそれがわからなかった気がする。

 

みんながこの人無理なんじゃないなと思っているんじゃないかという視線が嫌だったんじゃないのかな。

こんなひとここにいるのはおかしいから辞めちゃえばいいのにとか思われている気がした。

家と同じだ。

それまで十年ちかくやってこられたにもかかわらず。

 

 

たぶんわたしは、ずっと怖くて混乱していて、その怖さを解離して感じないことで、

なんとか動いてきたんじゃないだろうか。