いっとき避難場所

人間万事塞翁が馬

治療構造の破綻と苦痛の再現

カウンセリングというものが、

結局、誰にも助けられなかった、ということの再現になるのなら、一体なんの意味があるんだろうか。

失敗したカウンセリングは悲惨だと思う。

結局、掘り起こされた記憶と誰にも助けられなかったというトラウマの再現が起こるだけで、本人はさらに生きにくくなる。

 

といっても、今回は昔よりマシかなとは思う。何故なら閉じこもるわたしは少なくとも精神的にはそっとされていて、家族である夫によって、回復の時間を与えられたからだ。

昔は解離して無理やり働いて脱出するしかなかったけど、今回は違ったと思う。

家族から、鬱から脱出する猶予をもらったし、実質的に家事をしてもらうというのは看護と同じだ。

鬱病になって療養する安全な場所と、時間的な猶予を与えられた。

ありがたいことだと思う。

 

…人の仕業には限界があり、できることとできないことがある。

これまで解離して忘れている方が全くもって健全な生活できたわけで、

どうして、パニック発作を繰り返すまでにカウンセリングを続ける必要があるのか、逃げるのかとか忘れるのかとかいって追い詰められる必要があったのか、それで離人症から同一障害に近くなっているのに、追い詰める必要がどこにあるのか、ぜんぜん全くわからない。誰のためにそんなことやるのかわからない。

方向性のないカウンセリングでもって、社会適応のことなんて誰も考えてない。

 

…結果的にたぶんわたしが逃げていたのは、転移じゃないし、仕事じゃないし、幼少時から延々と続いた苦痛と恐怖の記憶だ。離人症の原因になった事柄だ。

 

…医療の名の下に、過去の事柄とか個人情報を聞き出して、そういうふうに処置をした人を責めるということは

結局、何も助けてはくれなかった親を責めることと同じだ。

たぶん何も解決はしないんだと思う。

解決はしないのかな、よくわからないけど、怖くて考えられない。

 

 

人の限界を超えるものはルールと時間と場所しかなくて、治療構造(わたしなら援助関係のルール)のキモは、物理的な時間と場所と、法的な義務だと思ってきた。

仕事のことを思い出せば、わたしとBPDのケースなら電話の時間を制限するとか、順番を守ってもらうとか、物理的、法的な楔を人的な限界の代わりにして関係の中に打つことだ。

淡々とした落ち着いた生活を続けるということが、目的であってかつ結果だから。

 

わたしがわたしのワーカーなら、パニック発作を起こしたりして耐えられなければ、カウンセリングの頻度を落として、話を制限すると思う。

実際問題、生活歴を聞いたりする時にフラッシュバックを起こす人というのはたまにいて、そういう時、話をやめるとかそらすとか、目的を再確認するとか、そういうことはやるし、そうでないとこっちがこわくて発狂しそうになると思う。

それでも話すというならしっかりきくけど。

 

 

なんで援助者が率先してそれを壊すのか、わたしの記憶だけを奪取して、戻る場所をなくすのか。

それならそもそも聞き出すべきではないんじゃないのか。