なにかの大義名分や、正しいと思われていることのために、
他人が本当の気持ちを表現することを拒否することには正当性がないと思う
文化的な許容範囲というものがあるとするならそれは表現の仕方の話だと思う
逆にいえば、表現をさせるためにシンボルがあり芸術や諸処の語彙が有用だとするなら
伝え方とかやり方とかを問題にするべきだ
たとえば下品すぎるとか、露骨すぎるとか、そういう批判はあり得るだろうけれど
伝えようとすることそれ自体を批判することには人間として正当性があるのか疑問だ
いわゆるフェミニズムのようなものは
獲得することそのものにも当然目的があるのだろうけれど
おそらく、表現をすることそれ自体が必要とされているから、存在することになっているのだと思う
たとえば、女性の社会参加というけれど、実際には育児や介護やなにやらかにやらあってなかなかうまくいかないというふうに考えるひともある
しかし、表現することは大事だ。
なんでわたしがこんな目にとか、不公平だとか
女の人がそう思うだけではなくて男の人も子供もみなおそらく不満を持っている。
女の人が不満だから男の人にそれを表現するなというのは逆におかしいし
男の人が頑張ってるから女は不満を言うなというのもやはりおかしい
不満を持っているのは個人であるから
個人が自分の欲求などを表現することは大事だ。
男も女も病気にならないために。
もし公序良俗に沿って表現を行うことがまずもってできないとしたら、無理をしすぎるとか、何もできないとか生産的な方向にはいかないわけだから
愚痴を言いながらも仕事しているとかそのくらいがたぶん良いのだろう。