なんでこうなったかとか
なにが原因でこんなことになったのかとか
確かに掘り返せばきりがなく
原因など死ぬほど思いつくから、
一つ一つ掘り下げる時間が無駄である
しかも、掘り下げることそのものが余計執着を悪化させる
…というのだけれど、
カタルシスが全く無意味とも思われない
辛いことは辛いので、無理に話さずにいようというのも何か違う
話したいことは話したいで仕方がない
原因さがしとなにが違うんだろう?
それは自然に生ずるものであるから
出てきた時は流しておくしかなく
ただ、自然に流れてきたもの程度の認識で看過しておけばよいのではないかなと思う
ことさらそこに原因を求めるとか
さらにそこを掘り下げましょうとか
そうではなくて、フォーカスはあくまで現時点の感覚なりなんなりに置いた上で出てきたものは仕方がないということ
減衰を待つとでもいうか
そういう認識で良いと思う
腑に落ちるというのは
学習理論でもそうだけどひねもすそのことを考え続けたら腑に落ちるというものではないらしくて
関係のあるものを勉強したとか、全く関係のない事柄から突然閃いたとか
そういうことらしいから、同じ事柄に拘泥することが尚更、腑に落ちるという効果にとって役立つとは思われない
なので、ま、それはそれでよいとして
わたしの思考や言動が抽象的だとしたらそれはどう直したらよいのか
具体的にどう直したらよいのかという自問自答がすでに抽象的であってこまる
人により言葉は変えていると思う
日記とかメモとかこういうものは自分の頭の中での思考そのものの言葉になるけれど
そうでないものは言葉を変える
例えば去年の先生との話だと抽象的な言葉はあんまり使わなかった
言葉と、そこから想起される感情との組み合わせがどうもわたしと異なっているように思ったから、単純化していた気がする よくわからない
カウンセラーにもあんまり言わなかった 具体的にベラベラ喋った 何言っても通じない気がしていた。
夫にはどっちも使う しつこく説明するときもあるし確認するときもある
子供にもどちらも使う 上の子にはほとんど説明なく話す
ただ、誰との会話においても抽象的な言葉による会話の弊害は、たしかに多義的であるため誤解を招きやすいこと
誤解というならばだけど
コミュニケーションの志向から及び腰だから
ノンバーバルな会話の分量がわたしは多いので日常的にはそんなに困らないのだけれども
本当は具体的に表現した方がいろいろと獲得するものも多いのかもしれない
個人的な脳内の思考において具体的であったほうが有益だと考えるのは
いわゆる5w1hかなあと思う
ひとは振る舞いであり行動であり物理的に世界に働きかけたものが、その人であるとわたしは考える
つまりは結果である
だから、事あるごとに5w1hは具体的に考えるよう努力してみてもよいのではないかも。
ちなみに詩や文学について考えるときに具体的である差し迫った必要はそんなに感じない
多義的であることのメリットはやはり言葉にできないことの共感的な表出にあるのかしらと思う
明日やることがたくさんあるからもう寝る
とか。
具体的な思考というのは
行動とか操作できることについて考えるということかなと思う
早い話が、庶幾と手段だ。
どれだけ、わたしがコミュニケーションから及び腰であろうとも
行動に移し、希望と手段を具体的な言葉で表出すれば
動くものは動くだろうと思う。