いっとき避難場所

人間万事塞翁が馬

苦いユーレカ

今日気づいたこと

 

すうっと楽になった気がする

 

…わたしは、前の医者がわたしを良くするつもりで治療を続けてくれてるのだと信じていた

でも、いつまでもそういうふうに思わなくてもいいのだと思った。

 

…通院先でアルバイトをするというのは、その当時いろいろ調べたけれど、そういう逆転移系の話は結果的にクライアントが傷つくか自殺か心中に追い込まれるのが関の山らしく、よいことはなさそうだということは、医者からバイトの話をされた時点で薄々気がついていた。

でも、それはネットで調べた情報だし信憑性なんかない。

第一、わたしとしては、医者からのオファーを受け入れる以外この状況を終わらせる方法がわからなかった。

 

 …そうして、バイト(先生はリハビリと言ってたりもしたけど)をして、結果的にわたしは傷ついて、治療は中途半端に中断した(終わったことは良かったと思う)。

 それでも、それまでに医師がしたことは医療的に、医療の意図でされたもので、今もなお信じてればよくなるはずなのだと思っていた

(そうでなければなぜ私がこんな風にならなければいけなかったのかが全くわからないし、損なわれたものの価値が埋め合わせられない。それで、納得できないからだ)

 それで、今に至るまで大概のことは半信半疑だけど受け入れて続けていた

 

つまり、わたしは発達障害かもしれないし、躁鬱かもしれないし、前の仕事は魚屋がピアニストをするようなものであまりに向いていないからもやってはいけないし、単純労働しかできないし、わたしの人生は余生のようなものであると(先生は退職した一線を退いた銀行員と同じだと言っていた)。

仕事はわたしにはもともとできない仕事だから辞めてよかった。

わたしは大変な子供だったからお母さんが虐待にちかいやりかたをせざるを得なかった。

あとは、わたしはまともな仕事もできない、要は犬みたいなものであると。

 

 

 …そう信じてれば何かが良くなるはずだったけれど、なにも良くならないし、元に戻ることもできなかったから、

長い間苦しかったのだなと思った

 

先生は治療のため…わたしのため、必要なことをしてくれて、その結果わたしは良くなるはずなのになにも良くならない。

わたしがいうことを聞かないからだろうか。 

これが良くなった結果というか当然あるべき姿なのだから受け入れなければいけないのだけれど、受け入れられないわたしが悪い。

よくなりましたといえない。

いや、そうではないのかもしれないけどよくわからない。

 

 でも結局、パワハラだのなんだので最初の病院にかかった時のことを考えると、全く病気でもなかったし、ちょっと疲れているだけだった

だいたい、いつも病んでいたわけじゃないし、いつも発達障害ライクな症状があったわけでもない。優秀なところは優秀だった。

 不登校も親との不仲も済んだ話だったのに、カウンセリングでたくさん掘り出して自分の致命的な欠点であるように思い、自分が、本質的に欠陥のある人間であるように考えた

 

 第一仕事で疲れているのは当然の疲れだったけれど、それよりも仕事を休んで家でずっと物思いにふけったり、苦しい思い出を何度も反芻していることの方がずっと消耗していた

 それでも、先生が、それは精神科のオペと同じだと言っていたので、続けた

 本質的には先生がしていることを信じようと思ったからだ

 だって先生は医者だし、転移してたからだ(他の言い方に言い換えようがない、だって治療者以外のなんでもない。その他のことは関係ない)

 

 それですべてのことが最終的には自分を傷つけるのではないかと疑いながらも受け入れた

 結果ぼろぼろであった。

 ダメージ以外のなにもなかった。

 

 

 だから二軒目の先生が、良くならないからもうこなくてよいといって、精神科では精神病ではないあなたにできることはないと言ったときに、混乱したけど、いまはわかった

先生がいっているように、通院は、最初からなんの解決にもなっていない、そういうことだ。

 

 前の先生の治療は、不適応の原因を病気かもしれないからといったけれど、その状況を解決することもなく、社会的に廃用症候群みたいな状況にして、さらに不適応にして、次にその不適応を病気の原因にする無限ループの中に押し込めた

 病名はつくかもしれないけど、何も良くならない。何のために病名をつけるのかもわからない。

 病気ではないと最後にいったけど、その後は配慮も実効もない反治療的な行為しかしなかった上に、治療は必要だと言い続けた

 単なる何重にもわたる搾取であって、わたしが持っているものを全部取り上げて、わたしが一人で生きることができなくなってから、初めて自由にした(もう何も持ってるものもない)。

 

 要はわたしのため、助け合い、リハビリ、といいながら、先生がしたことはまともな治療ではなくて、単なる搾取だった。

 

 ただ、例えば覚醒剤は依存性のある違法な薬物で、覚醒剤を売るものは罪になる。

 でも、自分が違法な薬に手を出したり適切な治療を受けなかったりすることはもはや本人の責任である。

 だから、わたしも結果はわたし自身が当然引き受けなきゃいけない;つまり、そんなものに引っかかるよいかもだったともいえる。

 世の中、体に良いと言って良くないものを売りつける人はたくさんいて、わたしは単に騙された馬鹿である。

 売人が昔知っていた人によく似ていて、なんとなく離れられなかったという理由で、自分が依存症になって転落した、どうしようも無い状況である。

 

いうことを聞くのがあなたのためだと、搾取するものはいつもいう。

 

 わたしの母もそうだ。あなたのために風呂を入れてあげたと病気の弟を風呂に入れて死なせ、あなたのために良い学校に入れたのだからお金を無駄にするなと弟の希望する進路を否定した。

 あなたのため、あなたのため。

 相手の苦痛や相手の利益のことなど何も考えておらず、自分のために利用する。

 そうして、立場的に当然期待されるものとして、あなたのことを思っているから、大事にしているからと、いう。

 その対象が死んでも、喪失感はあるだろうけれど本人の苦痛がいかほどであったかなんて理解もしていないのである(弟の時にそれをよく理解した)。

 そういう人にとって、愛というのは対象を支配できていたということなので、知らないところはどうでもよいのだ。

 他人の身になって考えることができないからだ。

 

 わたしも対人援護職だったけど、わたしにも一応仕事上も愛?はあったと思う。

 技能的にベストを尽くして相手をよりよいステータスに持っていう誓いみたいなものだ。

   

 先生は母と似ている。少なくともわたしから見ると相似だ。

 

 たぶんそういうこと。

 

 よくならないのは良くならないようなことをし続けているからだ。

 原因を具体的に解決しないから。

 原因がわかったところでよくはならない。